【エッセイ】富士山をめぐる旅

(ジョーモネスク ジャパン Jomonesque Japan vol.2 掲載)
NPO法人 ジョーモネスクジャパン理事長 小林達雄


 富士山はえも言われぬ不思議な力を秘めて日本文化に君臨する。万葉集に顔を出して以来、今日まで歌い継がれ止むことがない。絵画、漆工、金工、織物などの美術工芸の世界に行き渡り、その勢いは銭湯の壁画さえ席巻した。さらに土を盛り、石を積んで富士塚を築いて祈ってきた。とにかく日本人の心には知らず識らず富士山が刷りこまれているのである。おりから列車がそろそろその辺りにさしかかると、ふっと車窓に目を走らせ、御姿を追い求めてしまうのである。

 かつて東海道を往来する旅もそうであったからこそ、あれほど浮世絵などに描かれ続けてきたのであり、昨日今日に始まったことではない。どうも縄文の大昔にまで溯る可能性が極めて高いのである。

 静岡県芝川町窪A遺跡は、縄文時代開幕間もないムラであった。その場所の北東真正面には富士の勇姿が大きく立ちはだかって、見事な風景を創っている。朝な夕なに縄文人はそれを目の中に入れていたのだ。時代を下って縄文中期ともなると、とくに富士山が良く見える場所にムラが営まれる事例が目立ってくる。しかも、祭祀的なストーンサークルを構築したりしているのである。

 山梨県は、その名に背いて山また山が重なり、富士の足元でありながら四周の山並に邪魔されてなかなか姿を仰ぐことができない。ところが都留市の牛石遺跡に限っては例外的に富士山頂が見える特別な位置にあり、そこに直径約五〇メートルのストーンサークルがつくられている。しかもその真西に聳える三ッ峠山の真中の頂に春分秋分の日に太陽が沈むとき、放射状の光芒が輝き、いわゆる神秘的なダイヤモンドフラッシュ現象を見せるのである。ところがストーンサークルの位置を少しでも離れると富士山頂が隠れ、三ッ峠山の天然の大イベントを見ることができなくなる。縄文人は十分承知の上で場所を選んでいたことをまがう方なく物語っているのである。似たようなストーンサークルは静岡県富士宮市の千居(せんご)遺跡にも認められる。帯状の列石が富士山を目指すかのように配置されている。富士山麓に近づくほどに火山灰が厚く堆積しており、当時しばしば火を吐き、噴煙を高く上げていたことがわかる。その活発な火山活動を繰り返す富士山にまともに向き合う場所にストーンサークルを作っているのである。おそらくは何かしら儀礼、祭祀の場として富士山と密接に関係していたことを窺わせる。

 我が身を振り返れば、物心ついてクレヨンを手にするや、飽かず富士山を描きまくった想い出がある。洛中洛外図風の雲をあしらって以下省略が得意技と自認していた。それにしても、あこがれの富士に出会えたのは遅れに遅れて高校二年生の修学旅行を待たねばならなかった。さすが本物、圧倒されて、ぐうの音も出なかった。愛すべき我が少年画伯の絵はたちまち色褪せて記憶の彼方に消えてしまった。とにかく、ゆったりと裾野を広げた不動の姿勢は、それまで抱き続けてきたイメージとは大きくかけ離れるものであった。

 こうした正真正銘の富士とイメージとのずれは、私の個人的印象だけではなさそうである。このことに目をつけて理詰めで論じた人物がいる。明治一〇(一八七七)年に東京大森貝塚を発掘した縄文考古学の開祖、米人エドワード・モースである。東京帝国大学の外国人お雇い教師として動物学教室を興し、いちはやく進化論を紹介した功績でよく知られている。

 そのモースは滞日中に、日本のあれこれを興味深く観察して、『日本その日その日』を著した。その中で、富士山をめぐる学生達とのやりとりがおもしろい。つまり、ある日、富士山の輪郭を描くように要求するのであるが、とくに斜面の角度に気をつけるようにと念を押したのにもかかわらず、出来上がりは一人の例外もなく、現実よりずっと鋭角な絵になっていたのである。モースは目論み通りの結果にほくそ笑み、学生たちは思惑との大はずれに苦笑したのであった。

 それにしても日本人は一万年以上も富士山と慣れ親しんできたのに、なんとそのイメージするカタチは本物の姿とは全く合致していなかったのである。もっともモースはこのことについて咎め立てすることはなかった。そして、日本に限らず、どの国でも、山を描くときは、どうも実際よりもはるかに険しく誇張しがちになるらしいと、おおような理解を示してくれた。たしかにその方がよほど頼りがいのある力を思わせるのである。

 それはそれ、いまの私は鉄道も高速道も飛び超えて、富士山を手繰りつつ縄文世界へのタイムスリップの旅を続けているのである。



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