【エッセイ】縄文環状貝塚から瓦礫記念塔建立まで(後編)

(ジョーモネスク ジャパン Jomonesque Japan vol.4 掲載)
NPO法人 ジョーモネスクジャパン理事長 小林達雄


 はるか縄文をあとにして時は移り、めぐりめぐって、日本列島はまたしても歴史的な大異変に見舞われた。平成23年3月11日、東日本大震災と津波そして原発事故。岩手、宮城、福島の海岸に残された無惨な爪痕が世界中の耳目を集めた。そこかしこに積み上がった瓦礫の山々は高さ20メートルにも達して目に余り、手に余る。縄文人が直面した日増しに嵩張るあの貝殻の山の蘇りではないか。

 そこで、縄文人はなんとか貝殻を斜面に投げ棄て当面をしのいだ。次には竪穴の窪みに埋め立てているうちに、それが地面の平坦化にも効果を発揮する事実に気がついた。廃棄ゴミの再利用、リサイクルの芽生えだ。しかし、その程度では抜本的な解決には到底適うものでない。最後の切り札として、ムラを囲む土手を築くための詰め物とするに至った。記念物としての環状貝塚の実現である。単に邪魔者を生活の場面から取り除くというにとどまらず、縄文世界観を表現する資材の主役に大変身を遂げたのである。「円」こそが環状集落や環状列石ストーンサークル、円形土手(環状土盛)、円形巨木柱列などに共通する観念の象徴である。もはや貝殻はゴミの山を増殖する厄介者ではなく、高邁な縄文人の心ばえをカタチ化する恰好な材料へと進化したのだ。換言すれば、貝殻ゴミは片付け、排除されるべき対象から貴重な建築材となって堂々と姿を現わし、永遠の現在を生きるに至った。

 翻ってこの度の大震災、津波で生じた瓦礫を目前にして手を焼き、右往左往するばかりの体たらくはいかにも見苦しい。政府はただひたすら全国都道府県に対して、瓦礫の受け入れを要請し続けているだけにすぎない。しかし、現実には青森、山形、東京、島田市の4都県が受け入れを表明。検討しているのは、秋田、群馬、埼玉、神奈川、富山、石川、大阪の7府県の合計11の自治体にとどまる。また、受け入れ「可否に言及していない」24道府県や「受け入れに慎重」は山梨、長野、奈良、徳島、大分の5県である(3月4日現在)。しかも今後時間をかければ、なんとか事態の打開が期待できるというほど簡単なことではないのだ。とりわけ、瓦礫は文字通りというにとどまらず、原発事故で発生した放射性物質セシウムなどで汚染されていて、万人が納得できる安全基準さえあいまい模糊とした状態のままである。つまり、どのように始末をつけるのかその処理方法や最終的なかたちにいたる道筋さえ全く示されていないのである。各自治体が受け入れをためらうのは当然である。各自治体の首長が承知しても住民の疑心暗鬼を解くことができないのだ。たとえ被災地や人々に支援したい気持ちがあっても、子や孫にまで犠牲が及ぶとしたら踏み切るわけにはいかない。それが本音である。

 そうした疑念が解消されない限り、瓦礫は落ち着き先も定まらず、宙ぶらりんが続くしかない。いかに政府が笛を強く吹いても誰れも踊ろうとしないのは当然だ。まるで順序がなっていない。まずは踊りの振り付けなしに笛が鳴っても踊りようがないではないか。

 それかあらぬか、報道されるのは、野菜やお茶や新米のセシウム濃度、あるいは原発事故現場から相当離れてホットスポットが発見されたりというニュースである。そこから風評も生まれる。風評には実体がないから、抑えこもうにもとらえどころがなく、変幻自在に流布してゆく。

 いまや受け入れを打診された一部の市町村民から反対の署名運動さえ提出される動きも出てきた。

 重要なのは、安全基準値をより厳しく設定したり、最終処分場を市街地から離れた地点に探したり、まして況んや人眼の届かない場所に機械的に地下に埋め込むところにあるのではない。そうした物理的な移動やそれにかかわる経費とか、あるいはまるで切り札のごとくに提示される補償費という常套句で解決を図ろうとする魂胆が見え隠れすることについては、過去さまざまな場面で裏切られた記憶を思い出させるだけである。そのような姑息な手段では何人の胸襟をも開くことは不可能であろう。縄文人は廃棄物の貝殻の処理にあれこれ算段した挙句、世界観を表現する記念物、かつて絶えて見ることのなかった環状貝塚を創造した。縄文人の技術水準をはるかに超えるその一大土木工事を可能にしたのは、肉体的な努力や勤勉さの次元ではなく、彼らの哲学と結びついた事業だからであったのだ。

 そうこうしているうちにも、被災地のそこかしこには集積され、放置された瓦礫が占拠していて、復興に立ち上がる全ての動きの足枷手枷となっている。復興の第一歩を踏み出すためには、まずは取り除かなければならぬ。いつまでも思案投げ首ではどうにもならない。ここはひとつ縄文人の記念物造営における貝殻ゴミの手際に学んでみるのも決して益なしとしないであろう。

 人類の歴史上、各地でさまざまな記念物が造られてきた。ストーンヘンジ、ピラミッド、スフィンクス、万里長城、マヤの神殿、アンコールワット、ボロブドゥールあり、日本では縄文ストーンサークル、円形土手、巨木柱列に始まり、仁徳天皇陵(大山古墳)、天守閣をいただく近世の城郭などなど、それぞれが独自の機能、内容をもちながら、いずれもが堂々たる規模で目立ち、存在自体を誇示する特色をもつ。これらの一群に加えて塔がある。旧約聖書の創世記に登場するバベルの塔も全くの架空ではなく、西アジアのシュメル文明に建造された神殿の流れを汲む記憶が下地になっている。天まで届けよとばかりの人類の不遜に機嫌を損ねた神が爾後一切そうした所業を画策することをできなくするために、共通語を取り上げた。全知全能の神をも懼れぬ所業に立腹したという物語である。

 実は、そもそも人類はバベルの塔に限らず、古今東西この上なく塔好きであった。北米西北海岸のトーテムポール、縄文の巨木柱列、さらにエジプトのオベリスク、アメリカ合衆国ワシントン広場の記念塔さらにエッフェル塔そして日本では大阪の通天閣、浅草凌雲閣から東京タワーなど各地に建てられ、いまもまた完成間近なスカイツリーが耳目を集めている。それぞれ独自の意味を持ちながらとりわけ高さが発するオーラがある。人の心を騒がすナニカシラの力がある。

 その塔を作るのだ。各地の瓦礫をそこに集めて積み上げる。安全第一の手当てを講ずることは勿論だ。適当に手を打つのは絶対避けねばならぬ。そのために専門家の英知を結集して念入りに検討が加えられ、厳しく検査する。必要に応じてセシウムなどの除染を忘れてはならないことはいまさら当然だ。右顧左べんする時間は直ちに、この前提作業に向けられるべきだ。

 そして、積み上げ、盛り上げて底辺の基壇を整える。さらに運び込まれた瓦礫を上面に積んで第二段をつくる。ここで一息ついて、作業工程を振り返りチェックしてから、手抜かりがないか、不備はきちんと吟味する。よしと決まれば続いて第三段、第四段と重ねてゆくのだ。次第に塔は高くなり、誰れにこびることなく、堂々と姿を現す。すべて衆人環視の下に、建設は進められるのだ。

 いついつまでに完成するというような姑息なお役所仕事ではない。あたかも連句のように継続しながら独自の詩的世界が自づとできてゆくのが望ましい。規模は立地条件などに応じて、第一段目の基壇の面積範囲で決まってくる。手頃加減の小さな規模から中程度、あるいは度胆を抜くほどのものがあってもいい。

 然り。瓦礫を邪魔物扱いせずに、新しい資源に変換するのだ。瓦礫はたしかに記念物造営のための資源となり得るのだから。

 むしろ大きければ大きいほど万人の心に訴える。人類があこがれた、あの神の不興をさえ招いたバベルの塔に挑戦する気概をぶつけるのだ。何も、どこにも懼れることなんかありはしない。そもそも原発採用に踏み切ったそのとき、もはやこそこそ逃げ隠れすることなんか許されるはずがない。(原発利用は愚挙だった、と私は思うが。)いまさら不測の事態などの理由を口する事は許されない。賽は投げられた。一生懸命に取り組み、取り切る道が唯一あるだけだ。どう振り返っても通ってきた途切れとぎれの道が見え隠れしているだけだから後戻りなどできはしない。道は我々の未来に向かってずうっと先にのびているだけだ。

 ところで、地上に塔を立てることを危険と騒ぎたてる人が多いかもしれない。だからと云っても代わるべき方策はない。地下に埋めたとてその安全性が保障されるわけではない。逆に埋めて安全なら、それとおなじ程度の手当てをすればよいではないか。たとえば50メートル以上の深さに広大な面積の立体空間を確保することの容易でないことは一目瞭然だ。むしろ地上に厚さ50メートルの壁で覆った塔にするほうがましではないか。

 敢えて地上に姿を曝せば、人々の目に触れる。実は、ここにこそ重要な意味がある。地下に埋没するなど、人目を避けることは隠蔽工作に通ずる。意識的な隠蔽となれば語るに落ちる。さりとて無意識なら許されるというものではない。ひとたび原発を是としたコトの重大さに頬かぶりを決めこむのか。そうあってはならない。総力をあげて安全を図りながら、塔を建立し、消えることのない放射性瓦礫と向き合い続ける覚悟をするべきなのだ。

 それを天下に示すのだ。

 瓦礫を目前から遠ざけることで、その場しのぎの安堵を得ようとするのは、原発採用の責任および原発採用の顛末を見届ける責任逃れの二重の過ちを犯すことになる。瓦礫を記念塔に変化させる意味がここにも存するのである。原発にかかわるさまざまな問題は、いま今日直ちに始末つけられるものではない。永遠に考え続けなければならないのだ。その橋頭堡として、人類が自ら招きこんだ所業の意味を象徴するものとして、どうしても記念塔にカタチ化すべきなのである。

 記念塔作りは、単なる厄介物の処理問題に留まるものではない。人間のあくなき創造性の発揮につながるのである。全体のカタチをはじめ外装のデザインや色合いなど額を集めて決めてゆく。そこに活気が漲り、新しい勇気が生まれてくる。ここで、ひとつ私案を示すとすれば、断然縄文デザインにお出まし願いたい。縄文こそは日本の基層文化の中核であり、一万年の伝統の中から生み出された優れたデザインの数々がある。岡本太郎を驚かせた縄文火炎土器の造形に文句はない。あるいは太郎の「明日の神話」を記念塔の前面にドカンと据えるのはどうか。

 とまれ、汎人類的意味あるいは現代的な課題を含む記念塔の実現のために、国籍の内外を問わず広くデザインの試案を公募するのもいい。賞金で吊るというのではなく、問題を直視して関心を寄せる誰れでもが参加する意味が重要なのだ。それらのアイディアの代表のいくつかを一書にまとめて公刊して、さらに議論を重ねる叩き台とするのだ。

 記念塔の建立は、一方的な金喰い虫ではない。造営に関係する各種企業や雇用の拡大を誘発する。また安全性の研究や議論は学術的分野にかかわる研究者にも活動の機会が開かれるはずである。総じて、相当な経済効果が見込まれる。景気低迷に歯止めをかける一助と期待できる。

 いずれにせよ、現代的意義を問う記念塔は必ずや国際的な注目を集めるにちがいない。塔というだけで、人々の心を魅きつけてきた事実が改めて想起される。そこに優れたデザイン力が加わって、世界中の評判をとり、足を運ばせるであろう。ヨーロッパ各地の大聖堂、バルセロナのサグラダファミリアなどと同じ地平に並び立つのだ。東京スカイツリーでさえ完成を待つことなく、話題をさらい、多勢を呼び寄せ、仰ぎ見させて止むことがない。

 人類はこれまで心の安堵を求め、祈り、願いをこめて、さまざまな偶像、イコン、記念物をものにしてきた。縄文土偶、ストーンサークルは心の拠りどころをカタチ化した原初的な所産である。そして塔もまた代表的な一つである。

 ここで提案した瓦礫の記念塔にはもとより異論もあろう。むしろ賛否両論が互いに鎬を削る契機となるのが、さらによい。そこにこそ現代の象徴的な偶像としての意味がある。少なくとも偶像の機能の一部を明らかに内包する代物となるはずである。



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